私はニセコに住んでいるので、ニセコでナイタースキーをすることが特段珍しいことではないのだが、ニセコに住まいを持たない方にとっては特別で素晴らしい体験となるはずなのでここで紹介させていただく。
ことの発端は私にある。私は年中軒下の椅子に座っている物乞いではないので、月末の暇な日を何か遊びの予定で埋めたかった。遊べるなら一日中ヒトデをひっくり返して遊ぶ予定でもよかったのだが、折角ならスキーやドライブなどの比較的高尚な予定を作りたかった。そこで、暇ではないものの、なぜかよく遊びに付き合ってくれる看護師に連絡を取った。
「今月末あそぼ。」
彼は月末の休みは忙しいらしく(もれなく私の友達は、私と同じくサイコパスかサイコパスに準ずる何かなので、恐らく何か狂気的な遊びをする予定があるはずだ。)、さらには私の質問に対して以下の質問で返してきた。質問に質問で返すことは良くないことだと学ばなかったのか。まったく。
「今日の夜暇?」
彼の中では私は永遠の穀潰しなので、常に暇だと思い込んでいたようだ。実際は暇ではない。私は18時まで用事があったのだが、そのままスキー場に向かい、スピード狂たちの饗宴だ。やはり人間は狂気が好きだ。安心より恐怖、停滞より変化、停止よりスピードだ。


夜のスキーはやはり寒い。本日は風もほとんどなく、気温もマイナス10度程度と日中と変わらないくらいであったが、最強のエネルギー源である太陽が出ていないため体感温度は気温から連想するそれよりもなお寒かった。

やはりナイターは視界がいい。夜間は、バーンを照らす照明が特定方向に絞られるので、バーンの状況が非常に見やすい。日中は光が強すぎて見辛い。地道に技術的な部分を練習するならナイターが間違いなくベターである。パウダーをすべるなら朝一、レジャースキーなら日中、スキーを楽しみたいのなら、ナイターだ。

夜の冷気で冷やされたバーンは締まっていて非常にいたが滑る。友人は怖がっていた。ばからしい。速すぎるという言葉は本質的におかしい。お金がありすぎて困ることはない。時間がありすぎて困ることもない。余裕がありすぎて困ることもない。スピードも同じだ。速すぎて困ることはない。
しかもスピードを出すことは初心者にとって優しいはずだ。ゴンドラの中は休憩ポイントであるということは多くの人間にとって一般的である。滑走スピードが増せば増すほど、ゲレンデの上で滑っている時間は減少し、代わりにゴンドラの上で座っている時間が長くなるため、体力のない初心者にとっては優しいはずだ。間違いない。

不思議なことにゴンドラに乗ると彼は私のことを非難してくる。私は彼のことを思って高速滑走をしているというのに。直観的に分かり難いことは理解できるが、ときとして直観に反するものが正解であることもある。スマートフォンやコンピュータがいい例だ。0と1、電子のやりとりの集合体であるはずだが、ディスプレイ上に表示される青空の画像は電子の集まりとは思えないほどに美しい。
「体力がなくならない。お前はズルをしている。」「速いから嫌いだ。」「やっぱりイカれてる。」
など。酷い言いようだ。人の好意を踏みにじるのは良くない。
ゴンドラの運行が終わる20:00までほぼノンストップ(ゲレンデ上でもほとんど止まっていない)で滑り切り、お互い帰路に就いた。

自宅に帰ってから1時間ほどすると、彼から面白い、いや面白いと言ってはいけない。深刻な話だ。帰宅途中で雪壁とガードレールで車を摺ったらしい。ププッ笑。本当に残念に思う。実際のところ、彼が比較的丈夫なステーションワゴンに乗っていてよかったと思う。これが前輪駆動の軽自動車だったらと思うと… 恐ろしいことになっていたかもしれない。これは彼が車を買うときパワーとスピードを優先するという賢い選択をしたためだ。お判りいただけただろうか。いかなるときでも、パワーとスピードは大きい方がいい。